講座の後の懇親会。先生方のスピーチを拝聴できることがあります。若い先生もベテランの先生も思いの丈を話すのですが,ときどき,若い先生から「不易流行」という言葉を聞くことがあります。若いのに,こういう言葉を知っていていることに感心します。それを,自分なりに咀嚼して話してくれます。ちょっと,じーんと来るものを感じます。何かしらの「志」を感じるからです。
  「不易流行」,これについては,ちょっと調べれば松尾芭蕉の言葉とすぐにわかります。立花北枝の問いに芭蕉が答えたことが,北枝の作品『山中問答』に記されています。(山中というのは,石川県の山中温泉の山中です)
  『山中問答』には次のように記されています。
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  萬物,山川・草木・人倫の本情を忘れず,落花散葉の姿にあそぶべし。其すがたにあそぶ時は,道古今に通じ,不易の理を失はずして,流行の変にわたる。然る時は,こころざし寛大にして物にさはらず,けふの変化を自在にし,世上に和し,人情に達すべしと,翁申たまひき。(『日本哲学思想全書12』平凡社)
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  芭蕉が北枝に誘われて山中温泉に行ったのは,もちろんのこと奥の細道の道中です。ですので,奥の細道の作品を鑑賞するとき,「不易流行」を念頭に入れると,なるほどと感じるものがわき上がってきます。
  「夏草や 兵どもが 夢の跡」
  不易流行を知る前の私にはただの夏草だったのですが,知ってからは不易の夏草なのです。何千年もの昔から,何千年の未来に至ってもやっぱり夏草は存在しつづけます。それとは対照的に,奥州藤原三代の栄華が流行として何ともはかなく感じられてきます。俳句に奥行きや広がりが感じられ,まさに芸術として私にしみこんできます。
 
  若い先生のすばらしいところは,こういった歴史的な言葉を自分の向き合っている対象に適用し,見通しを立てようとする点にあります。 
  
  私の研究対象である「算数」をみても,学制頒布以来,基本的に算数そのものの本質は変わらないのですが,その表現の仕方が時代によって変わっています。とくに,昨今はコンピュータによる表現で,算数の表し方は非常にわかりやすい形になってきました。私自身,現役の時,表計算ソフトで瞬時に表からグラフを作ったり,数値を変えるとグラフもつられて変わったりする様子を子ども達に見せました。その変化・動きに子ども達は嬉々として,かつ真剣に向き合っているのです。表現が変わることは,指導法も変わるという衝撃を感じた一瞬でした。そうして,変わらないのは,算数そのものの持つ美しさ,面白さです。これの表現が良くなることで一部の才能のある子だけがわかる世界から,誰でも算数を理解し得る時代へと変わっていくのです。

  時代を進めていこうとする若い先生には,どんどん世に出て欲しいと願います。