0か1かビルに入ると,入ったところが1階で,その上が2階。
下は地下1階,地下2階となっています。
規準をどこに置いたらいいかと考えると,入ったところである1階が妥当だろうと思えます。

一方,温度計を見ると,1度とマイナス1度の間に0度があります。こちらの規準を考えると,0度と感じられてきます。

こういう1から始まる数え方と,0から始まる数え方があるのは体験的に誰しもが知っています。

この違いはどこにあるのかと考えてみると,これが私にはなかなか面白いのです。
1からはじまるものは,どうも生活臭いのです。日常生活から生まれてきたように思えています。0は存在していない状態をさしているので,日常生活ではあえて言う必要がありません。言葉になりにくかったのでしょう。生活の中では無いものは無いのです。

これに対して,0から始まるものは算数臭いのです。メジャーなど算数の数直線を基礎とした計測器から生まれてきたように思えています。算数では,あるはずのない0がしっかり存在していています。人為的に創り上げ,他の数と同様に扱っているからです。小数第一位で四捨五入すれば,0も他の数同様のテリトリーを持っています。
無いものもあるとして考え,そこに一貫性を持たせているのが算数の世界です。

面白いのは年齢です。
昔は,「数え」という数え方で年齢を言っていました。
生まれたら,その時から1歳なのです。お正月が来たら2歳です。
とても強い生活臭さを感じます。誕生日そのものも面倒で,お正月が来たら,国中の人が一斉に一つ年を取ります。まさに,新しい年(年齢)になるのです。
世の中が新年になり,人々も新しい年齢になります。めでたさが今とは比べられない大きさに感じられてきます。極めてめでたかったのですね。

「満」で年齢を数えると,生まれてから1年間は0歳で,誕生日が来たら1歳です。
とすると,満は算数臭いように思えますが,年の数え方が数直線的な世界から生まれたとはなかなか理解が及びません。気にはなるのですが,満は西洋から伝わってきた数え方なので,西洋の年齢の歴史を紐解かないと,これより先には思考が進みません。いつか,何かの拍子に,西洋の年齢の歴史にふれられたらと思っています。
まあ,それでも,満0歳が先で,0の発見が後ということはあり得ませんので,何となくですが,デカルト以降に定まった数え方ではないかと思います。

年齢という不明瞭な存在もありますが,無いものを0として扱うという非常に観念的な世界が算数の世界なのです。
こんな風なことを考えていると,やはり,算数は論理的に考える方向に指導するのが筋なのだと思えてきます。生活臭さからの脱却ですね。
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