b7802「道徳って,なんですか」と問われたら,「それは,徳のある道のことですよ」と答えると,わかりやすいです。

「道」ですから,向かう方向があります。
「道」ですから,それなりに幅があります。

この道があまりに遠いと,歩む気持ちが萎えてしまいます。
この道があまりに狭いと,道をそれてしまいます。

道徳はとても大切な内容です。
ですので,元来,誰しもが歩めるようになっているので,まずは厳しいとは縁がない道と考えられます。
少しずつ歩んでみるとわかるのですが,かなり愉しい道なのです。

ところで,「道徳」の「徳」です。
「道徳」の「徳」って,いったい何のことなのでしょうね。
今日は,その話をしましょう。

徳を考える前に,「聖」を考えましょう。
「聖」は「耳」に重きを置いた漢字です。
何かが聴こえる耳の持ち主,それが「聖(ひじり)」なのです。
何が聞こえるのかというと,昔から決まっています。
「天の声」です。
天の声が聞こえるような偉い人のことを聖人と呼んでいます。
よく知られている聖人といえば,孔子,釈迦,キリストがいますね。

聖人には天の声が聞こえるのですが,残念ながら私たちには聖のようには聴こえません。
すぐに,雑念に心が奪われ,時には天に背いてしまうようなことすらあります。
そんな普通の人ですが,せめてもの思いとして,時々ですが,聖のような目で人々を見るようにしています。
それ次第に板に付いてくるように歩んでしまうので,道徳は道として存在しているのです。
この人々を「聖がごときの目で見る」ときのその心が「徳」なのです。

「徳」のある職業があります。
その代表格は小学校の先生です。
朝から夕方まで同じ子ども達を差別無く見守り,導きます。これこそが徳のある姿です。
家に帰っても子ども達のことをあれこれ思い案じます。まさに徳のある姿です。
学校の先生に多くの方々の期待がかかるのは,人の上に立ち導く徳のある心が必須の職業だからです。

小学校の先生に限らず,大人になり年齢を重ねると,遅かれ早かれ何らかの形で人の上に立つ立場になります。人生のバトンタッチに,「年の功」が必要だからです。
上の人が徳の道を歩めば,付いていく子(人)も,自然と人の上に立てるだけの徳を習得します。
徳の心を一層自覚的にすることです。
それが聖に近づこうと徳のある道を歩む「道徳」なのです。
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ところで,聖人。
日本にもいます。聖徳太子です。
「道徳の徳の図」をよくご覧下さい。
聖徳の流れで子(人)を見ていることがわかります。
また,「太」には,「水の上に、人を両手でおしあげている形で、人を水没から救い、安泰にする意」(字通)という意味があります。
「水没」,つまり,遅れたり,道を外れたりしている子(人)のことです。
見捨てずに救い出そうとする行為が「太子」なのです。
道徳の徳とは,別名「聖徳太子」なのだととらえておけば,かなり良い把握ができます。

さあ,両手を広げてみましょう。天の声が聞こえるように。
さあ,両手を上に押し上げてみましょう。水没した子を救うように。
落ちそうになっている子どもや仲間を,
ひねくれてしまいそうな子どもや仲間を,
救えそうな気持ちになってきます。
聖徳の心で「徳のある道」を歩めるようにしていきましょう。
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「徳は孤ならず。必ず隣あり」(論語里仁第四)
この言葉を思い返すたびに,今からでも徳のある道を歩もうと自分に語りかけてしまいます。
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