【横山験也のちょっと一休み】№.3514

その昔、「先生って、先に生まれただけでしょ」と言われ、「これは参った」と1本とられた思いをしたことがあります。

その時は、もうそれ以上に何も考えが及ばなかったのですが、家に帰り、先の言葉が気になりました。「じゃあ、どういう生まれ方をしていたらいいんだろう」と自問したことがあります。

手元の漢和辞典を引いて、「先生」の「先」の字を、ほかの「せん」の字に置き換えてみたら、これが妙な刺激となり、妄想が進みました。

戦生=いつも「戦え!」と言っている先生。度を越えると、「卒業まで生きていられると思うな!」と口走りそう。常に、お酒が入って傲慢になっているような先生。こういう先生はいかがかと思う。

占生=何かあると、まず占ってから事を始める先生。筮竹での占いもよいが、できれば古式ゆかしく亀の甲羅を所望する。大地震があっても、まず占いそうで、逃げるに逃げられない子供たちは顔面蒼白。

専生=得意とする分野に関しては、どんどん話し、授業も進めるが、そうでないところは、かなりいい加減。時にはやらないことも。知徳体、人格の完成を目指し学ぶ現在の教育とは隔たりが大きい。

千生=大方は問題が無いのだが、千へのこだわりがあり、千を超えることは許しがたくなる。ゆえに、算数では1000を超えるとカッとなり、教えもしない。1000を超える数は存在しないため、800+400などは計算不能となり、「その答えは神のみぞ知る」と言い出す始末。こういう先生は、困ったものだ。

染生=隣のクラスの先生に、「ここは、こう教えるといいわよ」と言われると、その気になり、別の先生に「こんな風にするといいかもね」と言われると、そちらにすぐに乗り換えてしまう先生。何かと染まりやすく、主体的に生きる時代には、ちょっと似合わない。

羨生=ほかの教室の前を通り、ふと素敵な花瓶や、掲示物を見ると、いいなぁと感じ入り、「羨ましい」とつぶやいてしまう先生。教室でも、「隣のクラスの山田君はね、こんな素敵な賞をいただきました。うらやましいですね。」と、変な評価を臆することなく言ってしまい、クラスの子の様子は気にならない先生。

つらつらと言葉遊びをしてみると、「先生」というのは、確かに理にかなった言葉と思います。
人間として先に生まれているのですから、人の道をそれだけよく知っています。後に続く子供たちに、よりよい人生を歩んでほしいと願いつつ教壇に立つわけです。
教わる子供たちも、先に生まれた先生を、人生の先人として敬う心を持ちやすいです。

改めて、「先生」というのはいい言葉だと思いました。昔のことです。

今月の30日に発売になる本です。どちらもナイスな本です。