教育の古書が1冊届きました。旧制中学の受験本『基本算術書』(大正3年)です。
  その初っぱなに書いてあるが,数字の書き方です。

  字ノ傾キト幅ト長サト字ノ間ダトヲ揃ヘテ美シク正シク書クコトノ練習ガ大切デアル。
  
  私が,驚くのは,中学受験をする段階でも,字を丁寧に書くよう促していることです。
  文字なら,少々雑になっても前後の流れから,その字がおよそ何であるかを推測できます。しかし,数字はそうはいきません。雑に書くと,誤読をすることが多々あります。これは,年齢に関係が無く,急いで雑に書くと,誰の数字でも誤読されやすくなります。それではいけないので,折を見ては,「数字は丁寧に!」と指導する必要があります。

  この当時は,ごらんのように斜体で数字を書いていました。自分の父も母もこのような数字を書いていました。子ども心に,「お父さんの字は綺麗だ。お母さんの字は綺麗だ」と思っていましたが,自分は普通の数字を書いていました。
  
  この数字。実にすごい世界を表しています。
  文字の「あ」や「の」などは,集まって単語になるとあれこれ彷彿させてくれるのですが,バラされると,とっても無機質になります。
  ところが,数字は「1」「5」とバラされていても,それなりの大きさを感じます。しかも,「リンゴが1こ」とか「山が1つ」などと,主語や単位がつくと,同じ1でも,ずいぶん大きさが違って感じます。それなのに,「1」は単なる1という大きさでしかなく,リンゴだろうが,山だろうが,個数としては1で同じなのです。「リンゴと山は同じなんだ!」なんて,ちょっとしたマジックのように感じられます。一対一対応の概念を持ってしまっているので,自然と同じなんだと見なせるのです。
  さらに,「353」などと,単語のように数字が集まると,はじめの「3」と,最後の「3」では,意味が全く違ってきます。言葉の「とまと」は,はじめの「と」も,最後の「と」も,バラされてしまうと無機質で,何とも違いを感じ取れません。しかし,数は違って感じられてきます。れぞれの単位となっている大きさが違うからです。はじめの「3」の単位は「100」。最後の「3」の単位は「1」です。こういったことを感じるのは,位取りという概念が体にしみこんでいるからです。
  かの有名なヘーゲルは,数は「単位」であり,かつ「集合数」であると述べているそうです。でも,私にはヘーゲルのような大哲学者の考えることはよくわかりません。
  ただ言えることは,数は丁寧に書かないと,こういう魔法のような世界が壊されてしまうと言うことです。