道徳で考えるというとき、どのように頭を使うとよいのでしょう。

若いころのことですが、道徳の副読本の教材研究をしていた時のことです。
文章をよく読み、いろいろと考えいたら、次第に「これで授業をすると国語になってしまう」と思えてきて、しばし、頭を冷やしたことがあります。

道徳で考えるという頭の働きが自分自身に無かったので、自然と国語の教材解釈へと進んでいったのです。

今は、道徳の教材文を読むとき、まず「正しさ」という視点で読んでいます。

この視点で読むだけでも、すでに道徳です。
読んでいるときの心が、正しい方向へ向いているからです。

ただ、時として、教材文中の主人公が意外に不道徳と思えてくることがあります。
そんな時は、「どうしてこれを道徳の教材とするのか、よほどの深い意図があるのだろうか」などと思うのですが、真意はつかめません。

道徳としての正しさの柱は何か。
これを一言でいうと、「孝」となります。
親孝行の方向で考えることが、道徳として対象を見る姿勢なのだと私は思っています。

b7451この「孝」と、考えるの「考」は、意外なつながりを持っています。
「孝」の訓読みには「おやおもい」があります。
「孝」は「親」とつながっている思考なのです。
では、「考」はどうか。「考」の訓読みには「ちち」があります。
父親の父です。

その昔、祖父を尊んで「皇祖考(こうそこう)」と呼んでいました。
父は「皇考(こうこう)」と呼ばれました。
また、父が亡くなったときには「考」と呼ばれていました。

父を思い考える事が、その昔、正しい道を歩むための考え方だったように思えています。

「孝」が親とつながり、「考」は父とつながっています。
道徳として考えるというのは、やはり親がどう思うか、お父さんお母さんは何と言うか、そういう視点から見ることが原点なのです。
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