【横山験也のちょっと一休み】№.2833

zoom技法研で提案された平野卓也先生のレポート、その2です。

平野先生は、「己に如かざる者を友とすること無かれ。」がしっくりきませんでした。
また、前回のzoom技法研で、「三人行くときは、必ず我が師有り。」を学んでいたので、少々の混沌状態となっていました。

こういうスッキリしない状況は学びの世界では、ついて回ります。
スッキリしないというのは、今ある自分の頭を総動員しても、この混沌から抜けられないことを意味しています。
そこから、まだ学ぶべきことが自分の外にあるはずだと思えば、学びが進みます。
平野先生は、諸橋轍次著の『論語の講義』へ手を伸ばしました。
学んでいるなと感じた次第です。

「己に如かざる者を友とすること無かれ。」の友は、「学びの友」の事であり、「同師」「同志」であることは、先日記しました。<こちら>

では、「三人行くときは、必ず我が師有り。」はどういうことでしょう。この条には、善なる者、不善なる者が続いています。

三人行けば、必ず我が師有り。其の善なる者を撰びて之に従ひ、其の不善なる者にして、之を改む。

善なる者も不善なる者も「我が師」としています。

教室論語

では、その「師」とは何でしょう。
普通は「先生」を指します。「教える人」です。
大漢和辞典には「人をさとしみちびく者」とあります。

教えたり、さとしみちびく人を師というのですが、同様に、人の振りを見て、「教えられた」とか、「さとされた」ということがあります。
だから、善なる者はもとより、不善なる者も、師と似たような存在となります。
振りを見て、自分から感じ取り、その人がいてくれたから学べたとなります。
こういう学びの姿勢が孔子の学び方の一つになっています。

余談ですが、孔子は誰からも、自然からも、あたかも師から教わるように学んでいたので、「孔子に常師無し」と言われています。
先生が子供から教わるというのも、常師無しに通じます。でも、子供は師でもなく同志でもありません。が、それに値する何かを先生に見せてくれています。

ということで、「友」は同師・同志など仲間を意味し、「我が師有り」は学び方を意味してると、私は捉えています。
どちらも、相互に関連していて、私にはありがたい教えとなっています。

「zoom技法研に参加すれば、我が師あり」と平野先生のレポートから感じました。

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