【横山験也のちょっと一休み】№.3292

野口塾のメーリングリストに、萩原朔太郎の詩が流れていました。

猫  萩原朔太郎

まつくろけの猫が二疋、
なやましいよるの家根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』

いい詩ですね。

この詩の2行目。
「なやましいよる」は調べないといけないと感じる言葉でした。

「夜」に引っ張られて、色っぽい夜という思いも湧いてきたのですが、ネコの描写の感覚と、最後の病気で、そうはとれそうにないと思えました。
しかし、それをうまく説明できません。

幸いなことに、詩が歴史的仮名遣いで書かれているので、可能性として、時代による「なやましい」の語感に違いがあるとも考えられます。

広辞苑を見ると「なやましい」に3つの意味が出ています。
①なやみを感ずる。難儀である。くるしい。
②病気などのために気分がわるい。
③官能が刺激されて心が乱れる。

今の時代の辞書ですから、③が書かれており、ふと官能的な夜を思う自分がいても、何の不思議もありません。

広辞苑の前身である辞苑(昭和10年)を開くと、「なやましい」は「なやましの口語」と出ています。「なやまし」を読むと、2つの意味が出ています。
①難儀である。くるしい。わづらはしい。
②気分がわるい。

広辞苑の③「官能が刺激されて心が乱れる。」はありません。③は、戦後の新しい語感なのでしょう。
これで、「なやましいよる」には官能的な内容は含まれないことがわかったのですが、念のために、言海でも「なやまし」を引い見てました。大正元年の改訂版です。
悩ム感ジデアリ。

野口先生御推薦の『類語の辞典』(明治末期)もあるので、勢いで「なやまし」を引いてみました。
意味として、(なやむべくあり)とあり、その類語が並んでいます。
[疾]やまし(病)。いたし(痛)。くるし(苦)。いたはし(労)。わびし(侘)。わづらはし。

「なやまし」の類語にも、官能的な言葉はありませんでした。

ということで、「猫」が書かれた時代は、「なやまし」に官能的な意味を持っていない時代とわかりましたが、こういうわかり方をしなくても、詩を読んでスッとわかるようになれたらと思います。

基本的には、「悩んでいる夜」と素直にとらえることになります。
自分が悩んでいるのに、ネコは尻尾をピンと立てて、なかなかの凛とした姿になっています。
その猫が恋を語らいます。青春真っただ中。
悩みとの猫の恋、そのコントラストが何とも言えない世界を感じさせます。

最後には、悩みがあるのに、猫と一緒になっているかのように「おわああ、」といいつつ、病気なんだと言っています。
そこに暗さがありません。
きっと笑みを浮かべながら言っているんでしょうね。

労咳(ろうがい)を患っている沖田総司が、笑いながらちょっと話して、咳込むのですが、また笑っている。「いいなぁ、ねこは」と言ってそうです。
そんな姿がダブりました。

8行の中に、楽しい世界と苦しい世界を入れ込んでいて、それでいて明るい。
良い詩だと感心させられました。

こちらは、野口芳宏先生の国語の本です。良い本です。

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