【横山験也のちょっと一休み】№.2326

■羽鳥先生の通信、最新号に『国語教育を救え』■
羽鳥悟先生が1か月に1度送ってくれる、「通信」があります。
「日本人を育てる教育実践研究会」の通信です。
今月は9日に届きました。
もう、58号にもなっています。

58号の記事は2つ。
1、書籍紹介
2、授業構想紹介

1の書籍紹介に、宇佐美寛先生の『国語教育を救え』が扱われていました。
2では、日本人の長寿に関する道徳の授業展開が示されています。勉強熱心な羽鳥先生が各方面からの資料を使い授業を組み立てるという匠の授業を見ることができます。

羽鳥先生の通信に関心を持たれた先生、羽鳥先生に「通信希望」と一報されると、次号から届くと思います。
羽鳥先生のメルアド:s-hatori1408■@■bay.wind.ne.jp (■を2つ削除すると、羽鳥先生のメルアドになります)

羽鳥先生の通信の書籍紹介を、引用いたします。
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1 書籍紹介
次の本が出版されました。
●宇佐美寛著『国語教育を救え』(さくら社、2018.7.15)
会員の皆様は読まれましたか?
まだの方は是非ご一読ください。まだの方のために少しだけご紹介します。

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野中氏は、次のように書いている。
「教員が白墨を持って教壇に立ち、教室に整然と並べられた机に着席した子どもが教員の話に耳を傾けながら黒板の文字を筆写するという教室の風景は、驚くべきことに百年以上前の明治時代とほとんど変わっていない。」(p30)
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この後、宇佐美先生の批判が展開されます。
私はこの後をすぐに読まずに本から目を離しました。「宇佐美先生はこの後にどんな批判をされるのだろう?」と想像しました。「自分ならどう批判するだろう?」と引用文を読み、考えました。「今回は宇佐美先生に近づくことができるだろうか?」と微かな期待も込めたりしながら。
そして、自分なら野中氏に対し「現場の教室はそういう指導形態だけではない。もっと多様である。」という批判をする、と決めました。そして続きを読みました。
「!!」
衝撃を受けました。
「目から鱗」でした。
宇佐美先生の批判は私などの想像をはるかに超えていました。
勉強になります。

また、別の頁で次のようにありました。

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私自身は、毎回、文章を書きはじめる前に、鴎外の「阿部一族」を五分間程度読む。これで思考の調子が安定する。(p118)
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「宇佐美先生がこのように書くほどの文章はどれほどのものだろう?」と、昔読んだ森鴎外を本棚から探しました。30年ぶりくらいに手にした『阿部一族』を読んでみました。「宇佐美先生はどの部分を読むのだろう?」と頁をめくってみました。文豪の文はどれも立派に思えてしまいます。

ふと『国語教育を救え』のブックカバーに文字が連なっているのに気付きました。発行者の横山験也先生が読者のために載せてくれたのでしょうか?「これだ」と思い、ブックカバーの文字群はどの辺りに書いてあるのかを探しました。
見つけました。次の部分です。

「人には誰が上にも好きな人、厭な人と云うものがある。そしてなぜ好きだか、厭だかと穿鑿して見ると、どうかすると捕捉する程の拠りどころが無い。忠利が弥一右衛門を好かぬのも、そんなわけである。しかし弥一右衛門と云う男はどこかに人と親み難い処を持っているに違い無い。それは親しい友達の少ないので分かる。誰でも立派な侍として尊敬はする。しかし容易く近づこうと試みるものが無い。…」
森鴎外『阿部一族・舞姫』新潮文庫(p138)

重厚な文の連なりです。一文一義です。心地よいリズム感があります。文豪の作品を読んでも、自分はその素晴らしさに気付かなかったのです。ぼーっと読んでいたのです。
宇佐美先生のお陰で、改めて森鴎外の素晴らしさに気付かせていただきました。

他にも宇佐美先生の書かれた「同志編」をご紹介します。
●『私の作文教育』(さくら社、2014年)
●『議論を逃げるな―教育とは日本語―』(さくら社、2017年)
●『教師の文章』(さくら社、2017年)
教育関係者には必読書です。
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私(横山)も森鴎外の『阿部一族』を読みました。
宇佐美先生がこの本を読まれる理由が分かったような気がします。

羽鳥先生、素晴らしい通信をありがとうございました。

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