【横山験也のちょっと一休み】№.2333

■教育基本法を私なりに解釈すると■
「チーム横山」に私もレポートを1枚提案しました。
タイトルは「教育基本法の解釈」です。
私の解釈ですから、道徳から見た解釈、つまり「道徳読み」となります。

どうして、急に教育基本法を解釈したのかと言うと、そろそろ道徳を応用してみたいと思ったのです。
これまで学んできた道徳を用いて、ちょっと世の中を見て、自分なりに解釈をしてみようかと思ったのです。
それには、まず、書き物を対象とした方が把握しやすいので、どんな書き物にするかと思い、できれば源と思っていたら、教育基本法に行き着きました。

特に、大きな意図はなく、横たわっているのは自分の歩んでいる道の道なりです。

第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

まずは、これの解釈を試みました。
一文が長いので、途中で区切って考えないと、私の頭が追いつきません。
そうやって考えていくうちに、次第に心が熱くなってきました。
なんとはなく、「論語に近い」と感じ取れてきたのです。

この感触は論語を1回か2回読んだ程度の頃の自分には感じてきませんでした。何度も読んで、論語の感覚が何とはなくわかってきて、おやっと感じてきたことです。
論語は深く学ぶ必要があるなぁと、こういうことからも感じています。

まずは、「人格の完成を目指し」です。

人格は完成するものと示されていますので、完成する以前は未完成の状態となります。人格の完成状態・未完成状態にあることを、これまでの道徳はどういっていたのでしょう。論語及び周辺から言葉を借りると、完成状態は「聖人」であり、未完成状態は「君子」や「小人」と考えられます。
よって、「人格の完成を目指し」は「聖人を目指し」となります。

目指しというのは、意識的に目的として設置し、その方向に歩むことです。 ですので、教育は聖人を目的とし、聖人に近づくように歩むこととなります。

非常に崇高な世界を感じます。
「人格の完成を目指し」というのは、日本の教育の志としてもとらえることができます。

もしも、海外で日本の教育のことを問われたら、まずは、その志として、日本の教育は人格の完成を目指していますと、私はしっかり答えたいと思います。
それを聞いたら、海外の教育者は日本人の民度の高さ(例えばサッカーでのごみ拾い)を想起し、なるほどそうだったのかと思うでしょうね。

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