b8559_300『歎異抄』にも,分数が登場していました。
1回目に読んだときには,スルーしていたのですが,2回目には,「オオッ!」です。

「古親鸞の仰せごと候ひし趣,百分が一つ,かたはしばかりをもおもひでまゐらせて,書きつけ候ふなり。」

最初,この「百分が一つ」を「万が一」と同様の意味と思ったのですが,どうも,前後からすると,違うようです。「ほんの少しでも」という意味として取った方が通じやすく感じます。
そうだとすると,とても珍しい分数の使い方となります。
私にとっては,分数活用の新種発見です。

親鸞(1173~1262年)は鎌倉時代の前半の方です。
ほぼ同じ頃の人に,鴨長明(1155~1216年)が『方丈記』を書き記しています。
こちらにも,分数が出ています。
鴨長明の使い方は,広さの表し方として,分数を使っています。
都のうち三分が一焼けたとか,家の広さが十分が一になったとか。

思うに,この頃,分数は舶来の高級な概念だったのでしょう。
日常で使うほどではなく,学問した人同士では通じる言葉だったのだろうと思います。
習った人には,簡潔に表現できる,かなり気の利いた概念だったのだと思います。
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歎異抄,岩波文庫からも1冊購入しました。
やっぱり,親鸞となると勉強しようという気持ちが強くなります。
分数で楽しみましたが,仏教の教えを日常生活に活かすには「滅」を意識するのが一番と感じています。
そうすると,私の好きな言葉,「そういう事もありますよ」に行き着きます。