【横山験也のちょっと一休み】№.3318

「無言にして大般若経を見読せしむ。」
『吾妻鏡』の第二で目を惹いたフレーズです。
「見読」ですから、その字を見れば、また「無言」ともあるので、「黙読」のことだとはわかります。
しかし、「黙読」とは意識のあり方が異なっているように思え、「見読(けんどく)」を幾つかの辞書で調べたのですが、出てきません。
貴志先生の『吾妻鏡』には別巻があり、そこに普通の辞書だと意味をはき違える恐れのある言葉が載っています。意味をはき違える恐れは無いとのご判断か、そこにも「見読」は出ていませんでした。

こういう時は、ちょっと考えたくなります。
「黙読」と「見読」は何が違うのだろうかと。

小学校で黙読をする場面としては、テストを速く終えた子が自習として本を読むことがあります。この時は、テストをしている子の迷惑にならないように、黙って読むことがお約束となります。
黙って読むのは、自分のためでありながら、人に迷惑をかけないという、道徳的良さを持っています。「半分は自分の勉強のためであり半分は周囲の人のため」となると、学び重視の読み方とは言い難いです。

「見読」はどうでしょう。見て読むのですから、周囲の人のことは問いません。ただただ般若経を見て読むのです。読むときは目を開けるので、大般若経の文字群の他にも目に映像は入ってきますが、そこを考えると「見読」は意識を集中して文章を読むととらえらます。
「無言にして大般若経を見読せしむ。」という部分の前には、「一千日岩清水宮司に参篭せしめ、」とあります。
「一千日岩清水宮司に参篭せしめ、無言にして大般若経を見読せしむ。」並々ならぬ覚悟で大般若経を読んでいるその姿が「見読」です。

黙読もいいですが、文字の向こうにある世界に集中する姿が感じ取れる見読の方が学びの質に高さがあります。

小学校は「探究」の時代に入っています。
自分の課題に向かって調べ、本や資料を読みます。
すると、初めは「黙読」という段階から入り、探究にはまっていくと「見読」状態になり、探究を楽しむようになると「玩読」となるコースも見えてきます。
「黙読」「見読」「玩読」
こういう言葉からも「探究」を後押し出来そうです。

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