【横山験也のちょっと一休み】№.2268

■道徳:「わかりません」■
先日のチーム横山での一コマです。

私のレポート時の出来事です。
道徳の話題として、昇降口の靴に関するレポートを提案しました。
その最後の方にクエスチョンを載せました。
知っていれば答えられ、知らなければ答えがなかなかわからない、そういう問題です。

若い植田先生、小出先生を先に指名して、答えを尋ねました。
両人とも、しばし考え、それなりに考えついたことを答えました。

その後、年上の須田先生に答えてもらいました。
須田先生の答えは、「わかりません。」でした。

若い先生:答えた
年配の先生:わかりません

有り難い状態だったので、レポートから少し離れて、一言コメントしました。

須田先生が「わかりません」と答えたのは、道徳として実に立派な答え方なのです。
わかりませんが立派というのは、それが分かりません、となりそうです。

よくわからないことを、さも分かったように答える行為は、道徳として褒められないのです。
自分の中に、正しさが生まれていない状態で発言をしているからです。

また、「分かりません」と答えることは、そこに謙虚さが顕れてきます。「だから、教えてください」と自然とつながるからです。
自分を低くしている様子が姿にも少し見えてきます。
さすがに、道徳を勉強している須田先生だなぁと私は感じてきました。

よくわからないのに答えると、合っているかどうかが気になります。教えを乞うというより、自分の力の程度が気になっているのです。

道徳以外の教科では、少々わからなくても、何とか答えよと努力することは、実に立派なこととなります。
自分の頭の程度を高めることにつながり、学びに対して意欲的、前向きとなるからです。
また、誤答でも答えることによって、正答に近づいていくことができます。
他教科は頭の学習だから、これで良いのです。

しかしながら、道徳は少々異なります。
何を答えるかという頭の働きより、どういう思いで答えているかという心のありようの方が重要だからです。
そういう心に重点を置く学習が道徳なのです。

ということで、須田先生を褒めて、若い二人はもう一息となりました。

その須田先生のレポートに、「道徳教育研究家」とありました。
須田先生はとても柔和な先生ですので、ぜひとも人を活かす活人道徳を進めてほしいと願います。

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